キワムのコラム 第70回

おぞましいかな自分

 最近、友人が新たに直腸癌になって手術をしたり、またストーマの講演を頼まれたりで意識がストーマになった事に向く ことが多くなった。
 私は何故、ストーマの生活を簡単に受け入れ、かなりのスピードで社会復帰出来たのだろう。直腸癌の診断にいたるまで は悪あがきしていたが、いざ診断のプロセスを通りその後は気持ちが停滞したり後ろ向きになることはなかったと思う。

 自覚症状はかなり前からあった。1年以上前だったかもしれないし、それ以上だったかもしれないけれど、今となっては それが本当に直腸癌の自覚症状だったのかどうかは分からない。お酒をたらふく飲んだ翌日のお腹の張りや排便が苦しかっ たのはだいぶ前からだったが、それ以外の時はいたって自分の体を気にするようなことはなかった。2002年の春頃、手術 の約2年前、車を買い換えようと思ったけど5年のローンを払いきれるかという不安がどこかにあって踏みきらなかった。 しかし2002年の9月にはそんな不安もほとんどなくなり新車の注文をした。その頃から本能的に感ずる不安を自分の体に 感じていたのだろう。
 2003年の1月に注文した新車が届く。電子カルテの仕事も少しずつ前に進み始め、メンバーも固まってきた。2003年の 年末頃からは酒を飲んだ翌日はトイレにいったりきたりで日曜日をすごす事も多くなった。軌道に乗り始めた電子カルテビ ジネスをここで中断してはという思いは常にあり、検査を受けたら、中断しなければならなくなる、皆に迷惑をかけるとい う勝手な思いで先に伸ばしていた。2004年の2月頃からは平日の夜中に腹痛でトイレにいくこともあるようになった。
 検査を受ける潮時だった。

 それからインターネットをあさった。直腸癌、人工肛門という図式は頭にえがかれていたし、数年前にヨット仲間が直腸 癌人工肛門、肝肺転移で3年後に死亡というのは身近で見ていた。ネットで根橋さんの「直腸癌・人工肛門からの出発」とい うページに出会ったのが前向きに生きる全ての出発点になったとも言える。外来の合間をみて読みあさり、外来が終わってか らもう一度最初から読み直した。健常者でもできない日本300名山を短い時間で単独踏破した記録は本当に私を勇気づけた。 その日から私のハイテンションにスイッチが入れられたのだと思う。翌日の昼前にメイルでボスに検査をお願いし、午後すぐ に検査、直腸診のあと、高圧浣腸して内視鏡、その場で診断が下った。もうその時点から全ての予定は自分で決めることでは なくなり、決められた通りに手術に向かって進んで行くまな板の鯉だ。

 贅沢を言わせてもらったのは、自分の職場で手術を受けたいということ。以前から考えていたことだが、自分の提供してい る地方小病院の医療レベルを自分も受け入れるという気持ちだった。専門病院に行こうとは一度も考えなかった。他の人にも そういう方法を勧めるつもりはないが、自分は自分の提供しているレベルを信じる気持ちだった。ボスがスタッフの手配をし てくれ17日後に手術をすることが決まった。入院は手術の1週間前と決まり、それまで普通どおりに仕事をこなし、週末のヨ ット仲間との時間も同じように過ごした。ヨット仲間には直腸癌で手術することは伝えた。自覚症状を長い間感じていたので 遠隔転移は十分覚悟していたが運良く術前の諸検査でその徴候は見つからなかった。術前での術式の予定は下位前方切除術、 肛門を残存出来るだろうという予定だった。

 当然ながら回りにいる全てのヒトはショックを受けたようだ。友人としてだけではなく、仕事に直接影響を与えるてしまう ヒトも沢山いた。しかし、私自身が弱気になることはなかった。話をして相手がショックをうけるとそのぶん自分の元気が出 るような感じだった。自分のつとめる病院の自由をいいことに病室にコンピュータを持ち込み外来に出ないで出来る仕事は手 術の前日まで続けた。RCコラムも毎日書き続けた。

 手術は予定通り始まり、術中の写真撮影を看護部長に頼んだ、手術室に入る前「頑張って」と言われても、「頑張るのは 私じゃなくて回りのスタッフ!」と言って手術室に入っていった。写真を撮ってもらったのは良かった。私の意識の無い間 だの事がよく分かる。手術室に入って術後の持続麻酔のためのカテーテルを腰椎に入れてもらい、手術台の上でポジション を作ったところで私は麻酔の中に入っていった。
 術中、下位前方切除術で切断した直腸、腫瘍から1cm離して切り取られた。その時、大先輩が私に幸運を与えてくれた。 リスクを持ったまま肛門を残存するのではなく肛門も切除するMiles' opeに変更してくださった。術中にたずさわったスタ ッフが5分間ほどの休止して重苦しい雰囲気の後での決断だったと後日聞いた。これは私にとってその後の人生に強い光を ともした瞬間だったのかと思う。
 術後麻酔が覚めた直後に執刀医からストーマが出来た事をしらされたが、なんのショックもなかった。麻酔でろれつが回 らない口で「ありがとうございました」と言ったのははっきり覚えている。

 さすがに術後数日は辛かったが、それでも手術翌朝、レントゲン室に車いすで移動して撮影して帰ってきたあと、ナース にコンピュータの前に座らせてもらいRCコラムに数行を書いた。勿論、腹も尻も痛かったが、ネットを通じて多くのヒトが このメッセージを見てくれるという気持ちは押さえられない衝動だったように思う。3日目からはヒトの手を借りずにコン ピュータの前に移動出来るようになった。

 術後8日目からストーマの面倒は自分でみるようにした。術後10日目には外出もした、タクシーの中で自分の体を支える のが大変だと感じた。外出から帰院するときは自分で車を運転した。術後14日目にはヨットにも乗ったしビールも一口飲ん だ。3週間目に退院して、翌日から仕事に復帰した。術後2ヶ月半で8時間に及ぶヨットレースにも二人で出場した。周囲の 友人には最初に会うとストーマを見せた。私のつき合いのある人の殆どはストーマの存在を知った。

 テンションがかなり高い時期が半年ほど続いた。その間だにストーマになったことを隠す必要のあるヒトはいなくなった。 それからだんだん落ち着いてきた。コンピュータのプログラムのような地道な作業はテンションが高まっているとまとまった 大きな事は出来ない。一種の躁状態だからなのでしょう。そのうちだんだん落ち着いて来る。

 さすがに術後1年半もたつとストーマを見せて回ることはしなくなった。便がたまったパウチを見せるのは気が引ける、 相手が気分の良い思いをしないだろうと思うのだが、本当にそうだろうかと自分に問いかけてみた。今年の正月に沖縄の 写真家、石川真生さんのホームページを見て彼女がストーマをパウチ無しでお腹からだして鏡に映る自分の写真をアップ していた。迫力のある写真で彼女のするどい目とお腹のストーマがグロだと感じた。でも、その写真を昨日ふと思い出し たのだ。
 私がこれほど今、楽に過ごしているのは回りに隠す必要がなくみんながパウチ越しのストーマを見て知っているからだ。 先日、ストーマに出来たポリープの小さな写真をRCコラムに載せた。しかし、私の中でなにかストーマをおぞましい物だ と思っているところがないのかという考えにいたった。自分の中にそのような感覚が100%無いとはとても言えないと感 じた。芸術家である石川真生さんは自分をさらけ出している。私は芸術家では勿論無いが、自分をさらけ出すことに興味 は持っている。自分でもどこかでおぞましいと思っている姿をさらけ出す事でまた何かが変わるかもしれないと感じた。


臍の左にあるのがストーマ、周囲の四角い痕は皮膚保護剤つきのベースを毎回貼っているところ。
臍の脇の縦に走る線は手術でお腹をひらいた痕

2005年12月6日

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