惑っているの?、生き甲斐
楽しく生きているパワーのみなもと、最近は意識するようになってきた。若いうちは衝動にかられるままに生きてきてなんの
問題もなかったのだけど、トータルした自分のパワーの限界を感じるようになるとその中でどうしようかと悩むことも出てくる。
昔のヒトの「四十にして惑わず」は私の人生にはあてはまらない。今まで生きてきた時間より、これからの時間の方が明らか に短くなっているなかで、いろいろ考えているとだんだんこれしかないだろうと思えることが浮き上がっては来る。惑いまくっている。
直腸癌になったのは本当に良いきっかけだったと今つくづく感じる。何度も書いているように新たな友達はとても増えた。
最近の経験の中では、至福のサンセットセーリングは、ヒトとしての幸せを自然の中で感ずる喜びを味わった。しかし、 これも一人で味わえるものではないことも良く分かった。良い仲間を呼び寄せる魅力が各人に備わっていなければ実現しない。
シーガイアミーティングも面白かった。昨年は「癌エンドルフィン(私の造語なのだけど、たぶん元気な癌患者特有な 妙にテンションの上がるときのこと)」が出ていて、浮き足だっていたのだけど、今年は、そういった事もなく自分自身 の生きるパワーにもどっていた。その中でヒトとヒトが影響しあう時間の共有。こうした時間を楽しく感じるためには、 個人にもどった時の根幹になる生きる方向がきっと必要だ。
ゆらぐ根幹だが、それが何かを知る事が「惑わず」なのだとしたら、やっとそれが見えるような気がしてきたのかもしれない。
私をコンピュータプログラムの世界に引きずり込んだ先輩、大橋先生(写真右端)と今回話していたら、残りの人生を考えて、
内ポケットに山のようにやりたい事のメモを詰め込んだ50代の我々に、「良いじゃない、死ぬまでに出来なければ、
生まれ変わった時にすれば良い!」って。
2005年5月24日