キワムのコラム 第61回

多田将三さん

ヨットクラブの先輩、多田将三さんが9月19日に逝ってしまわれた

 2003年1月に腎臓癌の手術、2004年2月に癌再発ということだったようだ。

 多田さんとのつき合いはもう20年ちかくになる。私たちが佐島から逗子に舟の引っ越しをしてきた頃 からのお付き合いだ。多田さんの息子、秀一が我々の舟のクルーになり、何年か一緒にすごしたことも あり、また多田さんが保険の代理店業をしておられたこともでもいろいろとお世話になっている。

 1937年生まれの多田さん、日本にいろいろな遊びが入って来た時、青春まっただ中で頑張っていた ようで、鈴鹿サーキットが出来た頃からエスハチで鈴鹿を突っ走っていたこと。130Rでみごとに コースアウトしたこと、その時、売り出し中の浮谷レーサーと同じ色のエスハチに乗っていたので 浮谷がとびたしたのだと思われて大騒ぎになったとか。

 私なんか、遅ればせながらのサーキット遊び、富士の30度バンクはもう走れなくなっていたが 多田さんには、30度バンクに突っ込んで行く時の話しを随分聞かせてもらったものだ。そんな 話しを聞きながら、戦後の復興期に青春を過ごし、その中で遊びに挑戦していった先輩達の世代 って、ほんとに遊びを知っている人達なんだなぁと感じるひとときでした。

 ヨットでは、5月の連休は熱海か伊東、夏は西伊豆までほぼ毎年出かけられていた。ヨットクラブ のメンバーもこのクルーズに参加させてもらっていた。クルージングの行き帰り、多田さんは、 よっぽど良い風で角度がよくないと、すぐ、「エンジン!」と声をかけた。熱海、逗子間の機帆走に 私も何度かおじゃまさせていただいた。

 みんなに多田パパと呼ばれて頼りにされ、ちょっと頑固オヤジで気が短かったのも多田パパの 個性です。私なんかより、深い深いつき合いをされた方々に比べれば、私がここに書いた事は 薄っぺらでしょうが、多田パパは私の心の中では今と変わらず生きつづけていくでしょう。

 合掌



2002年3月18日逗子レガッタ艇長会議の夜

2004年9月21日

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