キワムのコラム 第50回

患者になるということ

よく耳にする医者が病気になって患者になって始めて感じたというのがありますよね。でも私にはどうも そのように今回の入院を受け止めることが出来ないんですよ。

このテーマはかなり重いテーマで、私の中でも勿論まだ消化出来ていない。治療開始をもっと早期にという話は勿論 だがまあそれはちょっと置いておこう。ここ何年かの職場の経営的問題で院長との間に確執もあった。 でも今回自分の中で誰に頼んで、自分をまな板の鯉にしてもらおうかと考えた時、やはりそれは佐藤公一 院長だった。そう考えられるようになったこと事態がけっこう嬉しかったりもした。

穴(ケツ)の孔に指を突っ込まれる話しに代表される普通ではイヤな事もみんなまな板に登ってみるとたいした事も なく心の中で解決されていく。何故?と思ってみたら、直腸癌という病気が適当に大きなまともな病気だと いうことなのだと思う。目的(治療)に向かってどうしなければいけないかということが明確だ。 世の中でも多くの人が同なじ病気になって、統計的なデータもインターネットですぐ取得出来る。 インターネット上に個人的な闘病記も見ることが出来る。それをじっくり読むと悪い結果、良い結果も それなりに受け止めるようになれる。

事実の中に自分を置く、そして将来についても悪い場合、良い場合、またその確率が明確になっている事実の 中に自分を置くのってかなり気持ちの良い事かもしれない。その中で何が出来るかということと、病気になった からといって基本的な今までの生き方が変わるわけでもない。

こんな事を今言っているが、毎日忘れようもなく付き合うことなる人工肛門との生活をしてくとまた人生観その ものも今後変わっていくかもしれない。でも、現時点では人生観そのものは変わっていない。

病院のスタッフで病室を訪ねてくるスタッフや、お見舞いに来てくれる友達のほとんどにストーマ(人工肛門)を見せている 今後とも公私にわたってお付き合いをお願いする人々である。患者になる前、この人々とお付き合いするのに ケツの孔を見せる必要はなかったのだが、患者になった私は、この大切な仲間にとりあえず、私のストーマを 見せている。まだまだ分からない重いテーマだけれど、今は、大切な友達にストーマを見せている自分が 「患者になるということ」なのでしょう。

2004年4月24日

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